The teacher's invisible



 初夏の季節は、なにもかもがあかるく、目にまぶしい。太陽のひかりそのものが急にぎらぎらと強烈になるのはもちろんのこと、いままで真っ黒の上着をまとっていた生徒たちが一斉にそれを脱ぐせいで、学校中の色彩がおおきく変化するせいもあるだろう。
 エレンは太陽のひかりを反射し、目にしみるようにまぶしい白衣の白に目を細めながら、科学棟へ向かう小柄な後ろ姿を目で追った。
「透けてる」
 ともに廊下の掃除をしていた同級生たちの声が聞こえ、はっとそちらを振り返る。彼らがくすくすと肘で小突き合い、廊下の窓から眺めていたのは、渡り廊下を歩く女子生徒たちだった。どうやら白いシャツの下の、下着の色が透けて見えていたらしい。
「お前ら、サボってんじゃねぇよ」
 自分のことを棚に上げ、エレンは言う。
「なぁエレン、お前もこっち来いよ。お前は何色派なの」
「興味ない」
 一蹴すると、彼らは不満げな声をあげた。贅沢ものめ。これだからモテるやつは。その声を無視して掃除を再開しながら、先ほどの後ろ姿を思い出す。見かけると、無意識に目で追ってしまうその姿。
 いつだって一点の曇りもなく真っ白で、シワのない白衣。短く清潔に整えられた髪と、刈り上げられたうなじを隠すタートルネック。それらは、近寄りがたい彼自身の隙のなさを表すかのようだった。うぅん、とエレンは思わず口に出しながら考える。
 透ける、とか、うすい、とか、見える、とか。
 同級生たちがよろこび、盛り上がりを見せる言葉や事象に、エレンは同じような興味を抱けなかった。ずっとそうだ。彼らが僻みの響きを含んで言うように、自分の顔が異性の好みによく合うようだからとか、見ようと思えばいつだって見れるからだ、などとは思わなかった。異性にまったく興味がないとは思わなかったが、ただ単純に、ひらひらチラチラと視界の端を掠めるものに惹かれなかったのだ。
 ──それよりも、オレは。
 ここのところ、見かけるたびに目で追いかけ、その後しばらく脳裏から離れなくなってしまうその姿を思い浮かべる。
 

「失礼します。……リヴァイ先生?」
 日誌を抱えて、彼がいるであろう化学準備室の扉をノックした。しばらく待っても返事はなく、エレンはそっと扉を押し開ける。そして一番に目に飛び込んできたものに、どくんと心臓が跳ね上がった。
 リヴァイの白衣が、彼がいつも座っているいすの背にていねいにふたつ折りに畳んでかけられていた。
「先生?」
 エレンは衝動的にその白衣を手に取り、持ち主を探そうと準備室を出ようと扉に手をかけた。と同時に扉がひらき、目の前にそのひとが立っていた。細いフレームのめがね越しに見える、涼しげな色の瞳をおどろきにおおきく見開いて。
「なんだ……びっくりするじゃねぇか」
 そのまるくなった目を、その言葉の選び方を、かわいいと思った。自分の頬が熱くなるの感じ、すみません、と言いながら視線を移す。そして、エレンは自分の予想が当たっていたことに気づいた。すぐに手に持っていた白衣を広げ、ばさりと彼の肩にかけて羽織らせる。
「……、なんのつもりだ」
「いえ、あの、日誌……、持ってきたら、白衣がそこにかかってたので。先生忘れて出てっちゃったのかと思って」
 リヴァイはしどろもどろに答えるエレンの顔をじっと見たあと、扉にかけられたままのエレンの手首に触れた。
「なに突っ立ってんだ。入れ」
 エレンが一瞬触れた肌の感触におどろいて身を引くと、そのままリヴァイはエレンのからだをぐいと押しのけるようにして廊下から室内に入った。ただ肩にひっかけただけの白衣が揺れて、黒いタートルネックに包まれたほっそりした腰が目に入る。
「便所に行ってた。忘れたわけじゃない、置いていったんだ」
「はぁ」
 言いながら、リヴァイは白衣に腕を通し、自席に腰かけて脚を組んだ。その仕草をまっすぐに見ていられなくて、エレンは視線をさまよわせる。ぴったりと彼の脚にちょうどよく作られたスラックスは、透けることも、すき間から肌が見えているわけでもないのに、なぜか見てはいけないもののような気がする。短いスカートからふとももを露わにし、見せつけるように脚を組む同級生のその仕草を見ても、なにも思わないのに。
「白衣、脱がない方がいいんじゃないでしょうか……」
 心に浮かんだままエレンが口にすると、リヴァイは眉をひそめた。
「バカ言うんじゃねぇ。じゃまなときだってあるし、これから夏がくる」
「先生も、暑い日は半袖とか着るんですか」
「休みの日は。平日は着ない」
「どうしてですか」
 リヴァイはすこし首を傾げ、問いかけるエレンの目をじっと見た。さらりと髪を揺らすその仕草にあざとさを感じて、エレンはそっと息を吐き出した。いい加減、自分でも気づきはじめている。あざといなんて、相手をかわいいと思わなければ出てこない表現だということを。
「電車に乗るから。……他人の肌が触れるのが、気持ち悪い」
 その返答に、ぐっと胸が詰まった。
「それって……」
「日誌」
 エレンの言葉を遮り、リヴァイは突っ立った状態のままのエレンに手を差し出した。あわてて日誌を取り出すと、自分よりもいくぶんちいさく見える手のひらに載せようと差し出す。その一瞬、リヴァイの指にエレンの指が触れた。
「見すぎだ」
「……へっ」
 間の抜けた声が出て、派手な音を立てて口の中に溜まっていた唾液を飲み込んでしまった。
「お前、いつも見てるだろう。俺を」
 ──バレてた。
 リヴァイは真っ赤になっているであろうエレンの顔を、すこしおかしそうな顔をして見つめている。そのいたずらっぽい表情にますます顔が熱くなり、からだから汗が吹き出すのを感じた。この上なく焦っているのに、はじめて見る表情にたまらなくどきどきして苦しかった。
「すみません、そんな、……変な意味じゃ」
「違うのか」
 リヴァイは日誌に目を落とし、そう言った。めがねの奥の目が伏せられ、長いまつ毛がふるりと揺れる。口元がほんのすこし、おかしそうに歪む。
「悪かった。若ぇのに、変わってるなと思ったんだ。見えねぇもんの方に惹かれるのかと」
「……な、んで」
「隠した方がいいんだろう」
 そう言って、リヴァイは先ほど羽織った白衣の襟をつまみ、ひらひらと揺らした。
 かっと、顔に血が上った。わかっているのだ。このひとは、オレがいままで無意識に彼に向けていた視線の意味をわかっていて、オレをからかっている。自分自身ですら気づいていなかったその意味を、オレ自身に教えている。
「先生」
 二歩ぎくしゃくと足を踏み出し、思い切って、日誌に添えられている彼の手に、自分の手を重ねた。汗もかいているし、震えていて格好がついているとは思えなかったが、デスクと自分のからだのあいだにリヴァイを閉じ込める。
 リヴァイはまた目をすこし見開くことでおどろきを表現し、黙ってエレンを見上げた。うすくひらいたくちびるが扇情的で、口のなかに湧き上がる唾液を飲み下す。わかっているのに、こんなに無防備にこちらを見上げることに、むしゃくしゃするような衝動を感じた。
「じゃあ、先生が教えてください。ふつうの十五歳は、どういうものに惹かれるんですか」
 ぐっと顔を寄せると、リヴァイからはふんわりとシャンプーの匂いがした。レモンのような、微かで清潔な匂い。
 ふたりの手は、振り払われることもなく重ね合わされたままだ。他人の肌が触れるのは嫌だと言っていたのに。
「先生の、見えてないものが見たい。さっき気づきました。オレ、ずっと先生に興奮してる」
 呼吸が荒くなっているのが恥ずかしくて、無駄な努力だとわかりつつも必死に抑えこもうとする。
「……知ってる」
 ちいさなくちびるが動き、その言葉を紡いだとき、十五歳の素直な性欲がそのからだを動かした。かわいくてたまらなくて、触れたくてたまらなくて、なにも考えられずに顔を寄せた。
 ぱし、と音を立て、その顔に軽く──しかしそれなりの痛みを伴って──打ち付けられたのは、先ほどまでリヴァイの手元にあった学級日誌だった。エレンはよろけ、そのまま額を抑えて床に座り込んだ。
「痛、……」
「馬鹿野郎」
 リヴァイは日誌を手にしたまま、エレンの前にしゃがみ込んだ。うっすらと涙を浮かべながら、その無防備で挑発的な格好にいっそ苛立ちに近い興奮を覚える。
「ここ、間違ってる。今日の欠席者はふたりだろ」
「……あっ」
 リヴァイの指さす箇所を見て、エレンははっとする。
「すみません」
 リヴァイはエレンに日誌を押し付けると、立ち上がって何もなかったかのように再びいすに腰かけた。細い腰を反らし、ぴったりしたスラックスに包まれた、きれいな脚を組んで。ばかみたいに素直に、その仕草に目が吸い寄せられてしまうことが恥ずかしかった。
「直せ。それで、そのまま持ってろ。明日もやれ」
 リヴァイの言った意味が理解できず、エレンはぽかんと見つめ返す。
「記入ミスの罰。明日もお前が日直をやれと言ったんだ」
 その口調は、歌っているかのように楽しげに響いた。それがなんだか悔しくて、絞り出すような声で言う。
「……ずるい、先生」
「なんのことだ」
 おとなはずるい。同じものを前にしても、おとなと子どもでは、余裕が違う。自分をからかうその口調でさえ、かわいく思えて悔しかった。
「明日も来ます」
「明日はミスするなよ」
 最後に思い切ってキスでもしてみたら、先生の余裕をすこしは崩せるだろうか。おどろいて、顔を赤らめたりするのだろうか。そう思ったらたまらなくなったが、彼がにやにやとこちらを見るので実行に移せそうにもなかった。自分の気概のなさに辟易しながら、足元に落ちていた日誌を拾い上げる。
「……失礼しました」
 リヴァイはもうエレンに背を向けて、自分のデスクに向かって仕事をはじめている。おとなはずるい。もう一度そう思い、部屋を出る前に再び彼を振り返ったとき、わずかなピンク色が目に入った。つややかな黒髪のすき間からのぞく、ちいさな耳に透けた血管の色。
「先生、」
 近づいて、後ろからもう一度彼の手に自分の手を触れさせる。手のひらにかいている汗が恥ずかしくて、手の甲に自分の手の甲をのせ、指先をすり寄せた。おどろいた様子で振り向いたリヴァイの顔は、すこしずつ耳とおなじ色に染まっていく。手は振り払われない。
 季節の変わり目を、唐突に思った。穏やかで平らかな春の季節が終わり、夏が来る。きっと今まで経験した夏とはまったく違う、特別な夏が。それは予感ではなく、確信だった。
   




夏をむかえる準備のすべて

(2023/04/23)