Before we knew it, he was a prince.



 彼のことはずっと前から知っていた。小学生の頃から学区の端と端に住んでいて、中学のクラスも別だったから、ほとんど話したことはなかったけれど。
 名前はもちろん知っているし、彼の仲の良い友達が誰かも知っている。なんだかいつも怒っているような、ギャンギャンうるさい男の子だ、という印象しかなかった。だから高校に上がってはじめて同じクラスになっても、どうということもなかった。ただの同級生、それだけ。
 だけど、最近ふと気づくと彼のことを目で追ってしまう。たくさんいるクラスの男の子たちのなかで、なんとなく彼だけがふっとあかるく、浮き上がって見えるような気がする。他の男の子たちとなにがちがうのか考えて、ようやく気づいた。
 なんだか大人っぽいのだ。色っぽい、と言ってもいいのかもしれない。
 授業中窓の外に目をやる仕草、友人たちの会話に一緒に笑う姿、前と同じようでいてどこかちがう。すこし長く伸びた髪のせいかもしれない。
 ──静かになったのかな。
 なにがきっかけかはわからないけれど。
 聞いてみたい気もしたが、なんて尋ねればいいのかわからなかった。
 
「なぁ、エレン。どうなんだよ、実際のところ」
「は? なんだよ実際って」
「だからさ。お前年上と付き合ってるって噂だぞ」
 放課後、部活に行こうとして忘れものに気づき、教室に戻ったわたしは遭遇してしまった。男子生徒たちの猥談。無視して教室に入ろうとしたとき、話題の中心が彼だということに気づき、私は引き戸に手をかけたまま立ち止まった。
「だったらなんだよ」
「なぁなぁ、どうなんだよ。……アレ、したことあるんだろ」
「そうそう、……アレ」
「どうなんだよ~」
 ほんとうに、男子は。高校生にもなって。そうあきれる気持ち半分、聞き耳を立てている自分が責められたものじゃないと思う気持ち半分で、わたしはごくりと唾を飲み込んだ。
「……そりゃ、気持ちいいよ」
 彼の落ち着いた声がした。ヒュウだのフゥだの盛り上がりを見せる男子たちと同じように、扉の前で声を上げたい気持ちを懸命に堪える。
「やっぱり気持ちいいのかぁ~‼」
「なぁ、なぁ、どうなの、相手のが当たるとやっぱ柔らかいの」
「は? 何言ってんだ。硬いよ。お前自分の触ってみたらわかるだろ」
「硬い……?」
 ──硬い?
「なぁ、それよりさ! 問題はどうしたらできるかなんだよ、エレン~」
 周りがばかみたいに盛り上がるなか、どうやら彼女ができたばかりらしい男の子が必死に彼にアドバイスを求めはじめる。
「最初のとき、どうだったんだ? 嫌がられたりしなかったのか」
「別に、嫌がられないだろ。お互い好きなんだから。……緊張はしてたみたいけど」
 その声の落ち着いたトーンに、わたしはまたどきりとさせられる。扉のガラス扉に顔を寄せ、そっと彼の表情を窺う。どんな顔をして恋人の話をしているんだろう。
「タイミングがわかんねぇんだよな」
「……わかるだろ。一緒にいたら、向こうがそういう気分になってるなっていうのが」
「それがわかんねぇから困ってんだろぉ」
 彼の笑い声がした。やっぱりちがう。昔に比べて余裕のある、落ち着いた笑い声。きっとこの噂の年上の恋人が、彼をおとなにしたんだろう。
「最初のとき、どのくらい時間をかけたんだ? エレン様」
「……そうだな、二時間くらいだったかな」
「二時間っ!?」
「長くねぇ!?」
「は? 二時間でも短いくらいだろ」
「すげぇな、エレン……お前、意外と情熱的なんだな」
 同意だった。彼が恋人に対してそんな激しい愛情表現をするなんて想像が全くつかないのだ。
「はじめてしたときのご感想は」
 わたしはまたそっとガラスを覗き込む。ひとりが大げさに彼に向かってインタビューをするような仕草を見せたせいで、隠れていた彼の表情がやっと見えた。うしろ頭をかきながら、照れくさそうにむっと口を尖らせている。ようやく見られた年相応の表情に、心臓がきゅうと音を立てる。
「……気持ちよかったけど。それよりも、ほんとうにこのひとはオレのものなんだな、オレのものになってくれたんだなって、実感した。……愛おしい、とか多分、そういうやつ」
 彼の言葉、声、表情のすべてがあまりにも甘くて、わたしは苦しくなって扉の前にしゃがみ込んだ。これじゃまるで、彼に恋しているみたいだ。そんなんじゃ、全然ないのに。
「あ~オレ、エレンの話聞いてるだけで勃ちそう」
「お前それはやばいだろ、引かれるぞ」
 またばかみたいに笑い出した男の子たちを見て、エレンはあきれて言った。
「は? バカかお前ら。勃たねぇとなんもできねぇだろ」
 エレンが何言ってんだ、と続けて、男の子たちもわたしもぽかんとしてしまう。
「……いや、はじめての、……キスで、ガチガチだったら引かれるだろ……」
 すると彼もおどろいた顔をする。そして、あっさりと言ってのけたのだった。
「お前ら、今までキスの話してたの。──セックスの話かと思った」
 キス、という単語すら恥ずかしくて口に出せなかった初心な男子たちは真っ赤になり、大笑いをしてエレンをからかうことでなんとかやり過ごし、わたしは教室に入ることを諦めて扉から離れる。帰りに取りにこよう。心臓のどくどくという激しい音が鳴り止まない。
 それからずっと、彼のあの甘い声が、やさしい表情が、年上の恋人をどのように抱くのかという想像でいっぱいになってしまった。これじゃあのガキくさい男の子たちとまるで一緒だ。それでもなぜか、他の男の子たちが話す下品な猥談を聞いたときとは違い、思い出すたびに憧れに近い甘酸っぱい気持ちで胸がいっぱいになった。
 ただの男の子だった彼を素敵にした彼の恋人は、きっともっと素敵なひとなんだろう。なんだかうらやましかった。そんな恋人がいる彼も、あんなふうに笑う彼に愛されているその人も。
 
 ──そういえば、硬いって、何がだろう?
 
 
 
 

彼が素敵になった理由

ワンドロお題:「キス」(2022/05/23)