夏前からずっとなんだかんだでバタバタしていて、本を読むということができなくなっていたのですが(時間的にも気持ち的にも気合的にも)先日やっぱり読書って大事だなと思うことがあり、あらためて時間をとっていこうと思った次第です。
せっかくなので、これから読んだ本の感想みたいなものをここに書いていこうと思います。

リハビリで選んだのはずっと前に手に入れて、すこしだけ読み進めていた『辺境・近境』です。

旅行記が好きで、特に村上春樹の書くそれがすごく好きなのですが(『遠い太鼓』とか)、これもとても良かったです。
なんというか、ものごとへ向かい合う距離感がすごくちょうどいいというか、思い入れすぎない、できるだけ公平な目ででもていねいに観察している感じがすごくする文章で、それが彼の中でぜったいに深い重い思い入れのあるはずであるノモンハンや西宮の旅でもそのトーンが続いていて、ある種淡々とした表現なのにすごくぐっときました。

あと私は『テスカトリポカ』(佐藤究)を読んでからメキシコに対して「おそろしい国だ」という絶対的なイメージがあるのですが、この本のメキシコ編を読んであらためて「私は今後ぜったいにメキシコに行くことはないだろう」と思いました。このエッセイの中のメキシコが1992年で、今はまた違うのかもしれませんが。
あとアメリカ大横断編も、どうしてもスティーヴン・キングの影響で「よくまぁ無事で」みたいな気持ちになってしまった。アメリカのだだっ広さって日本人にはどうしても具体的なイメージのつかないちょっとした恐怖な気がします。


青山「大坊」の豆(153)

村上春樹が「(中国には)おいしいコーヒーというものが存在しないので、自分で材料と道具を持ってきていれるしかない」と言って持参していた豆。気になる

モンゴルの草原を横断するというのがどういうものが、あるいは読者にはうまく想像できないかもしれないが、だだっ広い海原を小さなクルーザーで横切っているようなものだと思っていただければよろしいかと思う。(170)

「旅行とはトラブルのショーケースである。ほんとうに家でスクラブルでもしているほうがはるかにまともなのだ。それがわかっているのに、僕らはついつい旅に出てしまう。そして家に帰ってきて、柔らかい馴染みのソファに腰をおろし、つくづく思う。「ああ、家がいちばんだ」と。そうですね? それはむしろ病に似ている。(196)

「温水プールのあるモーテルには泊まるな」(206)

世の中には故郷にたえず引き戻される人もいるし、逆にそこにはもう戻ることができないと感じ続ける人もいる。両者を隔てるのは、多くの場合一種の運命の力であって、それは故郷に対する思いの軽重とはまた少し違うものだ。(224)

過度の思い入れとか啓蒙とか気負いとかを排して、いわば「いくぶん非日常的な日常」として旅行を捉えるところから、今の時代の旅行記は始まらざるを得ないんじゃないかな。(248)

細かい記述とか描写はなるべくなら書き込まないようにする。むしろ現場では書くことは忘れるようにするんです。記録用のカメラなんかもほとんど使いません。そういう余分なエネルギーをなるべく節約して、そのかわりこの目でしっかりいろんなものを見て、頭の中に情景や雰囲気や匂いやおとなんかを、ありありと刻み込むことに意識を集中するわけです。好奇心の塊になる。とにかくそこにある現実に自分を没入させることがいちばん大事です。肌に染み込ませる。自分自身がその場で録音気になり、カメラになる。(249)

<それがどのように日常から離れながらも、しかし同時にどれくらい日常に隣接しているか>ということを(順番が逆でもいいんですが)、複合的に明らかにしていかなくてはいけないだろうと、僕は思うんです。(252)