首の後ろを汗が伝い落ちて、制服のシャツに吸われて消えた気配がした。
 朝だというのに太陽の位置はすでに高く、リヴァイは日陰を選んで駅のホームをいつもの位置に向かって歩いていた。山の中腹にあるちいさなちいさなローカル線の駅で、数年前にICカード対応の自動改札機が導入されてからは完全に無人駅となっている。近隣住民が移動する際利用する以外にはなにもない駅だが、景色だけは素晴らしく、ときどき大きなカメラを携えたマニアが写真を撮りにやってくる。古ぼけた駅舎と山、そして海を見下ろすロケーションがノスタルジックを誘う気持ちはわからないでもない、とリヴァイは思う。海の表面は太陽の光を反射してキラキラと光っている──と表現したいところだが、そんなかわいいものではないのが現実だ。リヴァイはベンチに腰かけて、目をさすようにギラギラと強い光に目を閉じた。電車がくるまであと数分だ。
 そう考えたとたん、急に胸がきゅっと苦しくなった。からだ中に血がめぐり、指先がぴりぴりと痛んだ。列車の到着を告げる機械音声のアナウンスが流れ、しばらくして静かに電車がすべりこんできた。ホームにいるのはリヴァイだけだ。彼ひとりのためにドアが開き、車内の冷気がふっと顔を撫でる。
 あぁ、いた。今日もいつもの位置に彼はいる。
 二両しかない車両の一両目、リヴァイが乗り込んだのとは反対の扉のそばに立って、彼はいつも外を眺めている。
 リヴァイは乗り込んだ扉のすぐそばの、いつもの席に腰をおろす。車内はリヴァイのほかにテニスのラケットバッグを抱えた中学生がひとり、目をつぶっている老人がひとり。そして彼。空気が漏れるような音がして扉が閉まり、やってきたときと同じように電車が静かに走り出す。リヴァイはそっと彼を盗み見る。彼はまぶしい日光が降り注ぐのも厭わずに窓の外を見つめている。海と山しかない、見慣れたものにとっては単調な景色を。
 彼はいつも同じような服装をしていた。シンプルだが、ゆったりとしていてかたちのきれいなTシャツに、濃い色のジーンズ。がっしりとしたスニーカー。荷物は持っていない。彼はいつも身ひとつで電車に乗って、手すりに寄りかかって外を眺めている。すこし明るい茶色の髪が陽の光に透けてさらにあかるく輝き、彼はそれを無造作にうしろでひとつに束ねている。彼の横顔を見て、髪の毛のかがやきを確認してから、一度リヴァイは視線を落とした。あまり見つめすぎると気づかれてしまうだろう。
 がたん、と車体が揺れ、いつもの段差を通り過ぎたことがわかる。カーブに差しかかって、電車はすこしずつ速度を落とした。ここを過ぎるともうすぐ次の駅で、電車は速度を落としたままゆっくりと進み、そして止まった。低いアナウンスの声が駅名を告げ、ぷしゅうと音をたてて扉が開いた。夏の熱気がむわりと入り込む。
 彼が扉にもたせかけていたからだを起こしてこちらを向いた。そうして一瞬だけリヴァイに視線をやると、いつもと同じようにゆっくりとホームへ降りた。夏の光を一本一本に編み込んだような髪を輝かせながら、蜃気楼が立ち上る駅のホームへ。車内から見る駅のホームはまぶしく、目が慣れないせいで彼が一瞬強い光の中へ溶けて消えたように見えた。
 そうして、扉が閉まった。彼が降りたあとの車内は、光が消えてしまったように暗く感じる。リヴァイは振り返って窓からホームを見て、どきっとした。
 彼がこちらを見ている。気のせいかもしれない。ただ彼が歩く進行方向に、リヴァイの乗った電車が走っていくだけのことかもしれない。
 それでも、確かに目が合ったような気がした。自分が呼吸を止めていたことに気づき、深く息を吐き出す。のぼせてしまいそうな気がした。もう一度ホームを振り返ると、もう彼の姿は見えなくなっていた。
 
 
 Chapter. 1
 
 
 はじめて彼を見かけたのは、初夏の終わり、六月の半ばのことだった。
 その日は午後に受験生向けの進路相談が行われる日で、高校三年生のリヴァイは担任との面談を終え、いつもよりも早い時間の電車に乗った。風のない午後だった。蒸し暑さに耐えきれず制服のシャツのボタンをひとつ開け、空気を送り込むようにぱたぱたとあおぐ。運のいいことにすぐにアナウンスが流れて、たった二両の電車も暑そうに息を吐き出しながらホームに滑り込んだ。
 同級生の中に、この路線を使うものはほとんどいない。リヴァイの通う高校のすぐそばに、もう一本路線が走っているからだ。そちらはもうすこし大きい──と言ってもたかは知れているが──駅があり、その路線の中で数ヶ所乗り換えの要所となる駅がある。高校の生徒たちはほとんどがそちらを利用していて、おかげでリヴァイの利用するこのローカル線は廃線間近と何年も前から言われ続けている。それでも近隣住民と、このささやかな鉄道を愛する一部の熱心なファンからの援助もあり、なんとかやっていけているらしい。電車に乗り込んだリヴァイは、まさにそんなファンのひとりであろう大きなカメラを携えた男性を見かけて心の中で感謝を述べた。高校のある駅から最寄り駅までは三駅だ。この路線がなくなっても自転車で通えない距離ではないが、できることなら避けたいものだ。
 汗が引いて落ち着いた気持ちになり、単語帳を取り出す。ぱらぱらめくっているうちに一駅が過ぎた。そして再び電車が止まったその駅で、乗り込んできたのが彼だった。
 いつも乗客は少ないが、その日はさらに少なく、車内にはリヴァイと彼、そして先ほどの鉄道ファンの男性と老人がひとり乗っているだけだった。単語帳に視線を落としていたリヴァイは、見慣れぬ長身の影に顔を上げてはっとした。
 きっと、車内にいたほかのものもそうだったにちがいない、とリヴァイは思う。夏の光をまとっているようにあかるい色の瞳をした、うつくしい容姿の青年がそこにいた。リヴァイは不躾だという意識もなく、ゆっくりと乗り込んできた彼の姿を目で追った。
 彼はリヴァイのななめ向かいの席に腰を下ろすと、長めの髪を鬱陶しそうにかき上げた。そして向かいにいるリヴァイをちらりと見てから、すぐに窓の外に視線を移した。高くかたちのよい鼻梁の線は彫刻のようで、大きな目をふちどっているまつ毛がとても長いことは離れていてもよくわかった。目と眉のあいだはきゅっとせまく、その意志の強そうな表情にリヴァイは釘付けになった。
 彼はたった一区間乗っただけで、すぐに立ち上がって次の駅で降りた。内側から光るような端正で垢抜けた姿は、質素で古ぼけた静かな駅には見合わぬ存在に見えた。電車は彼と数人の乗客を吐き出して、ため息のような音をたててから、億劫そうにゆっくりと走り出した。リヴァイは思わず振り返り、窓から彼の姿を見つめた。
 たった一駅、廃線間近で時間帯によっては誰が乗り込んでくるかも把握しきっているような電車に、見慣れぬうつくしい青年。そして彼の姿には、どこか郷愁を誘うものがあった。蜃気楼でゆらめくコンクリートのホームが小さくなるのを見つめながら、まるで幻みたいだ、とリヴァイは思った。夏の幻。
 
 
 彼を見かけたのはその一度きりだったが、リヴァイはその後電車に乗り込むたびに彼の姿を探すようになった。朝の時間は一時間に三本しかないため時間をずらしてみることはできなかったが、乗る車両を交互に変えてみた時期もある。たった二両しかないのだから隣の車両にいたらすぐに気づくだろうが、そうしてみずにはいられなかったのだ。そもそも、彼を見かけたあの日はイレギュラーなことだった。リヴァイの利用しない、平日の正午くらいの時間に彼はこの電車を利用しているのかも知れない。
 いい加減彼の姿を探すのにも飽きて、あれは幻だったのだと自分を納得させようとしていた頃のことだ。七月の頭のことだった。
 リヴァイは次週に差し迫った期末試験に向けて、英単語帳を片手に電車に乗り込んだ。そうしてはっと気づいたのだ。反対側の窓際に、彼が立っている。一度見かけたときにはしていなかった、黒縁のめがねをかけていた。それでも彼の姿を見間違えるはずはない。
 あまりの驚きに自分の手から単語帳が落ちたことに気づかずにいると、音で気付いたらしい彼がこちらを見た。彼の黄金のような色の目にまっすぐに見つめられて、リヴァイは動けなくなった。その背後で扉が閉まる。彼は怪訝な顔をしながら、リヴァイの足元を指でさした。落ちた、と言いたいのだ。
 リヴァイはぎこちなく頷いて、かがんで単語帳を拾い上げた。そして動き出す電車に一瞬よろめきながら、はじの席に腰をおろした。彼はもうリヴァイから視線を逸らし、外を眺めている。彼の横顔を陽の光がふちどり、そのきれいなりんかくを浮き上がらせている。めがねはたいした度数が入っているようではなさそうだった。その歪みのないレンズは、彼のうつくしさを損なうことなく鼻の上に乗っている。
 ぼんやりと単語帳を開いたが、なにも頭には入ってこなかった。そして前に見かけたときと同様、次の駅で彼は降りて行った。
 
 
 それから毎朝、彼はリヴァイの乗り込む電車にすでに乗っていて、ひと区間だけ一緒に乗り合わせ、次の駅で降りていくようになった。どんな天気のどんな日でも、彼がいるとその車両はあかるく清々しく見えた。古い車両も、彼の背後にあれば映画のセットのようだ。
 彼はいつも手ぶらで、特別におしゃれな格好をしているわけではなかった。スマートフォンを操作していたり、イヤフォンを耳につけていることも一度もなかった。ただじっと、窓の外の景色を眺めている。その横顔は映画の一シーンのようで、リヴァイはいつもスクリーン越しに彼を見つめているような気がした。彼の姿を見て驚くことはなくなったが、その姿は毎朝見ても新鮮な感動を呼ぶうつくしさがあった。
 彼が休日にも同じ時間の電車に乗っていることを知ったのは、一緒に住んでいる叔父に頼まれて買い物に出たときのことだった。行き先が学校ではなくても、同じ朝の時間に家を出たのはほんのすこしの期待があったからだ。彼に会えるかもしれない、という期待。反対方向の電車に乗るために、いつもと違う場所で電車を待った。そこへ、いつも乗る電車が滑り込む。窓越しに彼の姿を認めて、リヴァイはその電車に乗りたい気持ちをぐっと堪えた。彼は窓の外に向けていた視線を車内に移し、それからホームを見た。その仕草がまるで自分を探しているように見えて、リヴァイはもどかしい気持ちになる。
 ここだ。ここにいる。そう言いたくて、リヴァイは彼を見つめた。
 彼は諦めたようにいつもの体勢に戻った。そして電車がゆっくりと動き始めたとき、窓の外を眺めて目をまるくした。いつもと違う場所に立っているリヴァイを見つけたのだ。まちがいなく、リヴァイを見ていた。
 目が合っていたのは一、二秒の短いあいだのことだった。ばくばくと鳴る心臓を抑えながら、リヴァイは自分に言い聞かせる。自分だって、いつも同じ電車に乗る人物のことは把握している。いつもの人物がいなければ「おや」と思うし、イレギュラーなことが気になってしまうのは当然のことだ。
 
 
 彼がまた現れなくなったのは、その次の日からのことだった。よくわからない男にじっと見つめられて、気味がわるいと思われたのかもしれない。自意識過剰なその思いも、そして彼の姿を見られないことそのものも、毎朝リヴァイを落胆させた。彼は単調な毎日の中で突如現れた彩りのような存在だった。こんな思いに駆られるとわかっていたのなら、一度くらい勇気を出して話しかけてみてもよかったのかもしれない。
 彼が現れないまま、高校は夏休みに突入した。しかし小学生の夏休みとおなじわけもなく、すぐに夏期講習が始まり、リヴァイは通常時とたいして変わり映えのしない生活を送っていた。進学に対し特に問題がない成績を保っているとは言え、受験生は暇ではないのだ。毎朝同じ時間に起き、最低限の家事をして家を出る。そうして学校で勉強をし、友人たちと会話をし、買い物をして帰路につく。夕方、ひぐらしの声を聞きながらホームの上で見る夕陽はとてもうつくしかった。以前暮らしていた都会の街中では見られぬ絶景にはいつだって心を打たれたが、それ以上のものをリヴァイの中に残すことはなかった。ほんものの夏の光よりも、彼の髪に編み込まれて輝く夏の光のほうがまぶしく、リヴァイのまぶたの裏に残っていた。
 
 
 自分らしからぬ行動をとったのは、夏休みが始まって数日が経った頃のことだった。ホームの日陰に入って電車を待っていると、すぐそばの木に止まって鳴いているのだろう、蝉の大きな鳴き声が耳に響いた。日差しが耳の後ろをじりじりと焼いている。暑くて熱くてたまらなくて、ハンカチで首筋をあおぐ。
 熱風を吹き上げながらやってきた電車には、今朝も彼は乗っていなかった。もう二週間近くも彼を見ていない。彼がいつも立っている場所を見つめ、一駅のあいだぼんやりと電車に揺られた。そして次の駅で開いたドアを見つめ、発車のベルが鳴り始めたとき、思い立って電車を降りた。いつも彼が降りる駅だ。
 去っていく電車をホームから見つめて、すこしのあいだホームのベンチに腰かけた。講習をサボってしまったことへの罪悪感、自分らしからぬ行動への違和感、すこしの不安。いまから次の電車に乗っても間に合うだろうがそうはせず、すぐそばの自販機でペットボトルのサイダーを買った。これもまた、いつもの自分なら選ばないであろう飲み物だ。なんとなく、自分の行動の選択をいつものものからすこしずつずらしてみたいような気になった。その「ずれ」が、今日という一日になにかしらの変化を起こしてくれるような気がしたのだ。ペットボトルを目の高さに掲げてみると、空の青が透けて見えた。サイダー越しに見る夏の色は、現実よりもずっとずっと涼しげだ。
 三分の一の量を一気に飲んでから立ち上がる。彼はいつもここで降りて、どこへ行くのだろう。あのうつくしい色の瞳で、どんな景色を見ているのだろうか。そのことを考えると、胸がどきどきと高鳴った。
 改札を出ると、どこかで人が集まっているような、がやがやとした声が聞こえた。駅前と言っても何もなく、ぽつぽつと人家があるだけだ。なんとなくそちらへ足を向けると、どうやらドラマか何かの撮影をしているようだった。以前級友たちから聞いた話を思い出す。この場所がドラマや映画の撮影地として使われるのはどうやらそうめずらしいことでもないらしい。そのくらい──つまり絵になるくらいには──立派に田舎だということだろう。
 制服を着た髪の長い少女たちを、日傘を持ったスタッフが取り囲んでその顔に何かをほどこしているのが見えた。化粧を直しているのだろう。テレビや雑誌の類には疎く、彼女たちが有名なのか無名なのかもわからなかった。しかし撮影スタッフの数で考えればかなり大掛かりなプロジェクトなのだろうということは予想ができる。一般人ではないだろうと一見してわかる彼女たちの華やかな顔立ちを見て、リヴァイは彼を思い出す。彼もまた、彼女たちのようにカメラの前に立っても遜色のない容姿を持っていた。それどころか、彼女たちよりもずっとずっと目を惹くことだろう。
 もう会えないかもしれない「彼」。
 自分の中で特別になりつつあったその姿を思い浮かべながら、その人だかりを避けて目的もなく歩いた。木の影を選び、民家の石塀のあいだを歩く。視界が開けたところで、遠く坂道を下った先に砂浜と海が見えた。家と高校のあいだにあるこの駅を降りたのははじめてだったが、この光景に不思議な既視感を覚えた。遠い昔に、見たことがある気がする。そう思っても不思議ではなかった。幼い頃、彼は何度もこの町で数週間を過ごしている。
 誘われるように道を曲がる。海に向かってしばらく歩いたところで、思わず足を止めた。ガードレールに腰かけ、海を眺めている人影が見える。人違いだろうかとも思ったが、その姿を見間違えるはずもなかった。「彼」がいる。動けないまま、リヴァイはその姿を食い入るように見つめた。
「あ」
 先に声を出したのは、彼の方だった。白昼夢かもしれないと思っていたから、彼が自分に気づき、声を出してもリヴァイは驚かなかった。彼は目をまるくしてリヴァイに駆け寄り、その手を掴んだ。その手にはっきりとした感触があったことでようやくこれが現実であることに気付いたが、彼が自分の手を掴んで今来たばかりの道を戻るように小道に引っ張り込んだことの意味を理解することはできなかった。
「すみません、突然」
 リヴァイを日陰になっている石塀のあいだの道に押し込んでから、彼はそう言った。その声を聞いたのははじめてだった。リヴァイはまだ自分が夢を見ているのではないかという疑いが消えず、何も言えずに彼を見つめた。
「あの?」
「あ、……いや」
 彼はすこし屈んで、リヴァイの顔を下から覗き込んだ。
「だいじょうぶですか。急に走らせちゃったから、熱中症とかになってたり……」
 彼の心配そうな顔を見て、リヴァイはあわてて首を振る。彼はほっとしたように笑った。はじめて見た笑顔が、まさかこんな風に自分に向けられたものになるなんて信じられず、リヴァイは思わず目を逸らした。胸がどきどきと苦しい。
「……なにか、用か」
「すみません。声かけられるのかもって思って」
「俺が、お前に? なぜ」
 素直な気持ちで問い返すと、彼は首を傾げ、ちょっとおかしそうな顔を浮かべて言った。
「あなたがオレを見て、『あっ』て顔してたから」
 それはお前だろうと言いたかったが、自分がどんな顔をして彼を見つめていたのか自覚がなかった。今さら恥ずかしくなって、リヴァイは「声かけちゃまずいのか」とちいさな声で言った。
「いやまずいって言うか……近くにスタッフが来てて」
「スタッフ?」
「あ、いや……それより、オレのことわかりますか」
 彼は自分の顔を指さして言った。近くで面と向かって彼の顔を見ていると、あらためてその整った顔立ちに驚いた。その中でも特に、しっかりと太い眉と大きな瞳が与える華やかな印象が目立った。しかしただ派手だというわけでもなく、どこか品の良い──例えて言うなら王子のような、と考えた自分に内心で舌打ちをした──繊細さとりりしさがある。遠くから見ていると金色に見えたその瞳は、こうやって影のある場所で間近で見ると、その中心は緑がかっているようにも見えた。
「……朝、電車で見たことがある」
 そう言うと、彼は拍子抜けしたように笑った。
「……それはそうなんですが、そうじゃなくて」
 彼が何を言いたいのかわからなかったし、何と答えればいいのかもわからなかった。ほんとうはずっと、彼をどこかで見たことがあるような気がしていたのだ。彼の姿を見るといつも郷愁のような、ふんわりとしたデジャヴがリヴァイの心に湧き上がり、それがリヴァイの中で彼を特別な存在に押し上げていた。しかし、そんな曖昧で気味の悪いことを言えるはずもない。彼はそんなリヴァイをじっと見つめたあと、ふうとため息を落とした。
「……覚えてないか」
「は?」
「いや、オレ……」
 彼の言葉を唐突な電子音が遮った。彼はジーンズの尻ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、画面を見て「あ、もうだめだ」と呟いた。
「すみません、オレ、用事があって戻らないと。あなたは」
 そう言って彼はあらためてリヴァイを見る。制服を着ていることに違和感を持ったようだった。
「今日、学校は?」
「夏休みだ。ただ、講習があった。……さぼったが」
 最後にそう付け足して言うと、彼は意外そうな顔でぱちぱちとまばたきをしたあと、楽しそうに声を立てて笑った。その表情の変化が魅力的で、笑顔があまりにもまぶしくて、リヴァイは目を細めた。ぎゅっと胸があまく痛んで、指先を握りしめてその痛みに耐えた。他人の笑顔を見て、こんな感覚を覚えたのははじめてのことだ。
「あした、また会えますか。いつもと同じ電車で」
 彼の言葉に内心おどろきながら、リヴァイは頷く。
「エレンです。エレン・イェーガーです」
「……リヴァイ」
 エレンは笑って頷くだけで、名前を呼んで確かめることはしなかった。まるで、既に知っていることだとでも言うように。
「エレン?」
 そのとき、エレンがいた海の方向から彼を呼ぶ声がした。やべ、とエレンは言って、シャツの胸ポケットからサングラスを取り出した。それをかけ、陽の光のような瞳が隠れる前にリヴァイと目を合わせると、いたずらっぽく笑って言った。
「それじゃ、リヴァイさん。またあした」
 そうしてすぐ、エレンはもと来た道を走って行ってしまった。リヴァイは彼の姿が見えなくなったあとも、彼が自分の目の前にいた実感を失いたくなくて、しばらく動けずにいた。
「エレン」
 声に出して、彼の名前を呼んでみる。その声が自分のものじゃないかのように響いて、誰もいないのに恥ずかしくなってくちびるを噛んだ。この名前が、自分にとって特別なものである気がした。



つづく


2023/08/27発行 新刊進捗(2023/08/03)