今日で、四回目。いや、正確には四夜目だ。一回で済んだのは最初の夜だけで、次の夜からは必ず二度はしてしまったから。そもそも、何をもって一回と数えるのだろう。射精した回数で数えるなら、自分とエレン、どちらの回数で数えるべきなのだろうか。エレンが射精した回数より、自分の方がいつも多い。エレンが挿入の前に時間をかけるからだ。自分としては、一回達してしまうと冷静になってしまうのではないかということが怖くて、さっさと挿れてほしいというのが本音だが──


「アッカーマンさん」
 斜め後ろから声をかけられ、リヴァイはハッと我に返る。振り返ると年下の女性社員が書類を持って立っていた。
「先方に送る書類の確認をお願いしたいのですが……」
 わかった、と短く返事をして、彼女から書類を受け取る。そのまま顔を擦るように両手で覆い、目を閉じてため息をついた。すると「あの」とまだ後ろに立っていたらしい女性社員が声をかけ、リヴァイはびくりとして再び振り返る。
「あの、どこか体調でも……?」
「……大丈夫だ、問題ない」
 リヴァイがそう返すと、納得していないような様子を見せながら彼女は自席に戻っていく。彼女からの視線を感じながら、もう一度、今度は態度に出さないようにしてこっそりとため息をつく。気を取り直して、書類に目を落とした。


 ──まずいな。
 職場を出て駅に向かって歩きはじめながら、リヴァイは思う。知らず知らずのうちに、また口からため息が漏れた。
 最近、夜のことばかり考えてしまう。エレンが18歳になり、セックスを解禁してからまだたったの一週間だ。まだ一週間だからなのか、一週間なのにこんな、なのかはわからないが、リヴァイは自分のあからさまな変化が恐ろしかった。
 もともと、性衝動は淡白な方だという自覚があった。エレンと迎えた最初の夜だって、エレンが自分に向ける情熱に応えたいという気持ちが大きかったのだ。かわいいエレン。お互いがお互いを同じ気持ちで想い合っているということがわかったなら、それでいいような気もしていた。別に今までの関係でも十分満足していたのだ。ただそこに「恋人」という肩書が加わって、すこしのスキンシップが加わっただけだ。どうしても身体を重ねたいという欲求は、自分の中にはなかった。それでもエレンが自分を求めるなら、どのような形でだって応えるつもりだった。もともと男同士でそうすんなりうまくいくはずないと思っていたし、そのための知識を集め、事前に準備したのもすべて、エレンにわかりやすくそんな自分の想いを示したいと思っていたからだ。すべてはエレンのため。エレンが満足すれば、それでいいと思っていた。
 ──それなのに、このザマだ。
 情けない気持ちでくちびるを噛む。
 想像していたよりずっと、よかったのだ。
 最初は苦しかった。当然だ。快感よりも、違和感、異物感の方が強かった。しかし荒い息を吐いて眉を顰め、愛おしそうに細められたエレンの瞳に射られるのは、とろけそうなほど気持ちがよかった。実際、最中にエレンに見つめられ、それだけで甘く達してしまいそうになったことが一度ある。まだ両手で足りるほどの経験でこれなら、いずれ本当に視線だけで昇り詰めてしまうしまう時がくるだろう。あまりにも情けなかったが、きっとエレンは喜ぶだろうと思うとそれも悪くないような気がした。結局自分は、エレンが喜ぶことが一番うれしいのだ。
 電車に乗り込み、周りを見渡す。週末の帰宅ラッシュの車内では、平日よりもほんのすこし人々の顔が明るく見えるような気がした。一年ほど前、エレンとの関係が変わった時から、エレンと一緒に電車に乗ると、彼はいつもさりげなくリヴァイを自分の身体の内側に入れるように立つようになった。端が空いていれば端へ誘導し、つり革に掴まるときには不自然ではない程度に寄り添い、大きく揺れればそっと腰に手を添えた。
 エレンはどこからこんな仕草を覚えてきたのだろう、と始めの頃は微かに胸を痛めたものだが、今となっては彼の行動原理から自然に出た行動なのだろうとわかる。
 曰く、「大好きなリヴァイさんだから当然だ」。
 自意識過剰だと笑われるかもしれないが、いい加減これが事実であるということを認めないわけにはいかなかった。認めなければ、エレンの多少おおげさに感じるほどの自分への愛情表現に、いちいち嫉妬することになってしまうからだ。エレンがこんな行動をとるのは、誰かに教えられたからじゃない。相手が自分だからだ。
 車内の他の乗客たちは、目の前に立っている30半ばのサラリーマンが、エレンのような誰もが見惚れる男に熱烈に愛されているなんて、夢にも思わないだろう。
 誰にも言わない。エレンにだって絶対に言えない。リヴァイは時々、自分の内に湧き上がる喜びと優越感を、こっそりと噛み締める。
 エレンは人前では手を繋がない。エレン自身が人の目を気にしているのかもしれないし──その可能性は低い気もするが──、単純に人前でスキンシップを見せつけるような行動をとりたくないのかもしれない。その代わりに夜の帰り道や、人通りのないところではそっと指を絡めてくるし、人混みの中では大胆に肩を抱いてリヴァイを引き寄せるようにして歩く。
 自分より一回り以上も下なのに、エレンの手はリヴァイの手をすっぽり包み込むことができるほど、いつの間にか大きくなっていた。いつもさらさらと乾いてあたたかいエレンの手のひらは、触れるとほっと安心させられる。口に出すことはないが、リヴァイはエレンの手が好きだった。その手が初めての夜、熱く湿っていて驚いた。触れられたところが熱く、肌が離れるとすうと冷えてさみしかった。その隙間を埋めようとエレンにしがみつくと、エレンはリヴァイの肩口に額を擦り付ける。そこで苦しげに息を吐かれると、その吐息でぞくぞくと背筋に快感が走った。思い出した途端にその場所がむず痒くなって、目を閉じて手のひらでごしごしと擦る。
 最初の夜は、一度だけだった。エレンは「もう一回したい」と言って笑ったが、本気ではないようだった。リヴァイの身体をあたたかいタオルで拭き清め、ぎゅうと抱きしめただけだった。いっぱいいっぱいだったのは確かだが、本当に立ち上がれないほど辛かったわけではないし、エレンがどうしてももう一度、と言うなら応えてやっても良かった。自分を大事に大事に扱おうとするエレンがかわいくて嬉しくて、その気持ちに甘えたくなったのだ。
 お互いに寝間着を身につけ、エレンが濡れたシーツを取り替えて、ふたりで清潔なシーツの隙間に滑り込む。エレンにごく自然な動作で抱き寄せられると、身体中に幸福の粒が充満し、じゅわりと染み出すように幸せな気持ちになった。エレンの指はいつものように乾いてあたたかく、うなじを撫でられると気持ちがよかった。あの濡れた熱い手のひらは、セックスの間だけの特別なことなのだ。そう考えると、それもまた良い気分だった。
 アナウンスが車内に響き、自分の乗った電車が最寄駅に着いたことに気づく。慌てて電車を降り、冷たい外の空気を吸い込んで吐き出した。またため息になってしまう。日は徐々に長くなってはいたが、最寄駅のホームに降り立ったときにはとっぷりと日は暮れていた。夜の始まりの濃い藍色の中に、星がいくつか光っている。エレンは今日、何時に帰るだろうか。人波が去ったホームに立って、スマートフォンを取り出してみる。エレンから一件のメッセージが届いていた。


今日は遅くなりそうです。先に寝ていてください


 エレンは今日は遅いらしい。今度は違う意味を含んだため息を溢しそうになって、こんな女々しい気持ちになる自分を情けなく思う。夜のせいだ。エレンにやさしく抱かれる幸福を知ってしまったから、自分の目に映るエレンが──そしてエレンと過ごす日々が、全く違うものになってしまったのだ。
 リヴァイは改札を通り、週末に浮かれ、どこか華々しく見える駅前の喧騒を抜けて家路につく。今日の夕食は一人だ。駅から少し離れたスーパーマーケットに寄り、一人分の夕食を物色する。ファミリー層の夕食どきにはすこし遅いこの時間は、同じように一人で食べるのであろう仕事帰りの人々が、弁当や惣菜の棚をうろうろと歩き回っていた。
 エレンは何を食べるのだろうか。研究室の仲間たちと夕食をとるときは、大体いつも近くのつけ麺を──とエレンが以前話していたことを思い出す。きっと今日もそこへ行くのだろう。不健康だ、という気もするが、エレンの過不足ない彫刻のような筋肉を思い出してリヴァイは溜飲を下げる。
 エレンの裸にだって、今まで何度も目にする機会はあったが何も感じなかった。きれいに筋肉がつき、分厚くなった身体にはどきりとさせられたが、色気を感じるよりも前に感心を誘われた。よくもまぁこんなにたくましくなったものだ、あのヒョロヒョロとしていたエレンが。そう思うだけだったのに。
 リヴァイは初めて全身で感じた、エレンの素肌の感触を思い出す。手のひらと同じように、さらさらとあたたかく、滑らかだった。エレンの素肌が思い起こさせるのは、その感触だけではない。そのきれいな骨格のおうとつにうっすらと汗が浮かぶと、ふんわりとエレンの肌の匂いが立ち上ることをリヴァイは知った。頬を寄せると、石鹸の匂いに混じって感じる、どこか甘いようなエレンの肌の匂いにくらりとした。五感全てがエレンでいっぱいになってしまい、どこにも逃げ場がなくなってしまうのだ。すがりつくようにその張本人の首に腕をまわすと、エレンは困ったような顔で笑い、キスをしてくれる。呼吸さえ奪われて、いよいよエレンで溺れそうになってしまう。
 リヴァイは一人用の鍋セットを手に取り、レジへ向かう。エレンの帰りは遅いだろう。今日は週末だ。当然のように今夜は四回目の夜だ、と考えたことが恥ずかしくなり、リヴァイはいい加減エレンのことを頭から振り払おうと、週明けにすべき仕事のことを考える。今夜は早く寝てしまおう。そうでないと、エレンが帰ってくるのをひたすら待ってしまいそうだった。