3.

「兵長って、花が似合うよな」
「──は?」
 エレンが皿の上の芋をフォークで突きさしながら言うと、となりに座っていたアルミンがぐっと喉をならし、苦労して口のなかのものを飲みこんだあとにようやく返事をした。
「……兵長に、花が、似合う? えっ、どうしたのエレン」
「なんだよ。兵長に花が似合わねえって言うのかよ」
「いやそういうことじゃなくて。……突然どうしたのってことだよ」
 思わず吹き出しそうになりながらエレンを見るも、至極まじめな顔でこちらを見ている。あわててアルミンもまじめな顔を取り繕った。
 明日は数週間後に控えた第57回壁外調査に向けて、長距離索敵陣形の実践訓練が行われる予定だ。エレンを含めたリヴァイ班は昨日から本部にもどり、明日早朝からの訓練に備えている。しかし古城での生活と同様に、監視下に置かれているエレンはアルミンたち新兵とは宿舎を別にする。幼馴染三人がそろって食事をとれたのは、数週間ぶりのことだった。ミカサは何も言わず、エレンの表情を観察している。
「あの城、まわりになんにもねえだろ? 訓練おわったあととか、掃除の合間とか、なんとなくまわりの木や花を見てると、けっこうきれいなことに気がついたんだよ。特に最近、どんどん花が咲くんだ」
「……あったかくなってきたもんね」
 世界は春だ。アルミンは無難な返答を探りながら、真剣な表情で似合わないことを話しつづける幼馴染の顔を見る。彼はまた視線を皿の上にもどした。
「でさ。今まで目にも入らなかったちいさい野の花とか、木にぶわっと咲いてるりんごの花とか、そういうの、……かわいいなって思ったんだ。そういうの見つけると、なんか、よくわかんねえけど、兵長に」
「気のせい」
 ずっと黙ったままだったミカサが、エレンのことばを遮るようにして言った。
「気のせい。あいつに花なんか、似合わない。私やアルミンの方がよっぽど似合う」
「ミ、ミカサ……」
「なんだよ。お前兵長と花の組み合わせ、見たことあるのかよ」
「ない。でもわかる。あいつに花を贈るくらいなら私たちに贈るべき」
「え!? エレン、花を、兵長に贈ってるの!?」
「何言ってんだミカサ! そんなこと、してるわけねえだろ……っ」
「エレン、あなたは間違ってる。花は私に……」
「あの~」
 三人が騒ぎはじめたところで、後ろから声がかかった。「なんだよ、」とエレンが勢いよく振り向くと、そこには困ったように笑うハンジとモブリットが立っていた。
「分隊長! 分隊副長! お疲れさまです!」
 三人はもちろん、まわりにいた新兵たちもあわてて立ち上がって敬礼のポーズをとる。
「盛りあがってるところ悪いけど。エレン、この食事のあとすこし時間あるかな? 明日の実践訓練の最中に、巨人化実験に関してもやってみたいことがあるんだ」
「はい、もちろんです……」
「ありがとう。じゃああとで私の部屋に来てね」
 ハッ、とエレンが改めて拳を胸にあてる。
「あ、そうそう」
 ハンジは去り際に振り向き、ニッと笑って言った。
「当然リヴァイもいるからね。よろしく」
 エレンとアルミンは顔を見合わせる。
「……聞かれたかな」
 去っていくハンジたちのたのしそうなうしろ姿を見て、エレンは頭をガシガシとかいた。


 食事を終え、ついてこようとするミカサを振り切り、エレンがハンジの部屋を訪れたのはその三十分後のことだった。
 ドアをノックすると、「入って」という短い返事が聞こえた。はじめて足を踏み入れたハンジの部屋は、想像以上に雑然とした雰囲気だった。書類や本が見事なバランスをたもって積み重なったデスクを中心に、蟻塚のような本の山が、いたるところに立ち並んでいる。リヴァイは窓際に据えられたいすに腰かけ、ちらりとエレンを見たあと、手もとの書類に目を落とした。
「ごめんねぇ、散らかってて。適当にそこらへんに座ってくれるかな」
 そうは言われてもまわりには腰かけるスペースが見つからない。エレンは比較的低い本の山が載ったいすを見つけると、そっとそれらを床へと降ろして腰かけた。
「さっそくなんだけど、明日、ほかの班が陣形や紫煙弾の確認訓練をするあいだ、我々ハンジ班とリヴァイ班は、壁外調査中に起こりうるさまざまな事態をシミュレーションして、君の巨人化能力に何か影響を与える可能性があるか調べようと思うんだ。まず地図を確認しよう。それとリヴァイ、君の持ってる巨人解体新書を貸してくれ」
 リヴァイが立ち上がって手に持っていた本を差し出すと、ハンジはページをめくり、エレンを呼び寄せた。
「まずひとつ目。巨人と天気の関連。当日雨が降ってくる可能性も……、あれ、なんか落ちたね」
 ハンジがかがみこみ、紙片のようなものを拾い上げる。
「……あれ、押し花?」
 途端、リヴァイがハンジに渡した本を横からバタンと閉じて取り上げ、その手のなかのものも奪い取った。その素早い行動にエレンはおどろき、さらにリヴァイの手にむらさき色の花が見えて目をまるくした。
 ──押し花? あれは、オレが兵長にあげた花?
「……続けろ」
 ハンジは低い声で言うリヴァイとエレンの表情を交互に見つめ、「なるほど」とひと言つぶやいて頷いた。
「何が……」
「まぁいいか。本当は、リヴァイの女児化についてみんなに言いふらしたいところだけど。そのことは追々……モブリットだけに言うことにしよう。それでね、」
「おい!」
 めずらしく乱れた声を出すリヴァイをあしらいながら、ハンジは実験についての説明を続けた。エレンは懸命にその話を頭に入れようとしながらも、リヴァイが隠すように書類の下にしまい込んだ本のすき間に見える、別の色のうすい花びらが気になって仕方がなかった。
 あれもきっと、オレがあげた花だ。兵長はまさか、オレがあげた花をすべて押し花にして取っておいてくれているのか──?
 リヴァイはエレンの視線に気づくと、指先でこめかみを抑えてため息をついた。その仕草が妙に色っぽくて目が離せないままでいると、くちびるだけで「集中しろ」と促された。エレンはぐっと喉が詰まり、息苦しさを感じる。ごくりと唾を飲みこむと、必死でハンジの話に耳を傾けた。




 城に戻ってきたのは、無事に訓練を終えた次の日の夜のことだった。
 あの日、打ち合わせを終えるとリヴァイは早々にハンジの部屋を出て行ってしまい、何もたずねることはできなかった。その後のリヴァイはいつも通りの厳しくそつのない様子だったが、エレンはあの日にリヴァイが見せた表情のひとつひとつが忘れられなかった。あのひそやかなため息も、ばつの悪そうな表情も。彼は、どんな気持ちで花を本に挟んでいたのだろうか。子どもの気持ちを無碍にはできない、やさしいおとなとしての行動だったのだろうか。

 翌朝、束の間の日常へともどってきたエレンは、長距離移動と訓練で酷使させられた馬の世話をするために厩舎へ向かった。
 城を離れていたのは、たった数日のことだ。それなのに、城をとり囲む景色がどこか違って見えた。いつもリヴァイが見上げていた場所を通りかかり、同じように頭上を見上げると、花は散って新緑が芽吹きはじめていた。足もとを注意して見てみても、うつくしい花びらを保っている花は少なくなってきている。季節が移り変わっているのだ。
 後ろでひとの気配がして振り向くと、城からリヴァイが出てくるところだった。エレンに気づき、一瞬足を止める。
「兵長、おはようございます」
「……ああ」
「兵長も、馬の様子を見に?」
「そうだ。あいつらも相当疲れただろうからな」
 エレンはリヴァイのやさしい物言いに、きゅうと胸が苦しくなるのを感じる。
 ──兵長は、やさしい。
 そうして、突然気づいたのだった。自分が花を贈りたいと思うのは、リヴァイの今まで知らなかった一面を知るたびに、甘く痛む胸のせいだということに。ことばでは何も伝えられない。代わりに何か、かたちをもったもので表したいと思っていたのだ。自分でもよくわからない、自分のこころを。
「兵長が、好きなのに……残念です」
 思ったままが口をついて出る。もっとリヴァイに花を贈りたかった。
「っ何を、──言ってやがる」
「花、もう終わっちゃいましたね」
 エレンが続きを口にしたのと、リヴァイがあきらかな動揺を見せて言ったのは、ほとんど同時だった。うまく聞き取れなかったエレンは、リヴァイの反応におどろきあわてて言った。
「──えっと、兵長、花が好きだっておっしゃってたので。もっと花を贈りたかったんですけど、……残念……と、言いたくて」
「……花」
 何かまずかっただろうか。そう思いながらも、リヴァイの表情に釘づけになってしまう。またはじめて見る表情だった。おどろいたような、気まずそうな、複雑な表情。頬がうっすらと赤くなっている。
「あ、兵長、……花が」
「は」
 頭上の枝にぱらぱらと残っている花びらが、風に吹かれて散った。そのうちの一枚が、リヴァイの髪の毛に引っかかっている。エレンがそっと耳もとに手を伸ばすと、おどろいたことにリヴァイはびくりと肩を震わせ、きゅっと目を閉じた。そのあまりに無防備な姿に、エレンは自分の指先がからだ中の血液が集まってきたかのようにじんじんと痛むのを感じた。震えながら花びらを摘むと、その指先がほんのすこしリヴァイの耳に当たった。リヴァイのからだがまたちいさく震え、耳がみるみる赤く染まっていく。
「……取れ、ました……」
 ずっとこのまま見つめ続けていたかったが、ふたたびまぶたがひらかれたとき、その瞳にどんな色が浮かんでいるのかを知りたかった。おそるおそるといった様子で目をひらくリヴァイを、釘づけになったまま見つめ続ける。
 からだ全部が痛かった。胸も、指先も、頭も、見ひらきつづけて乾いた瞳も。その甘い痛みが意味するこころが何か、十五歳の子どもにだって、もうわかっていた。
「……好き、です」

おわり
(これからエレリになっていく、あの世界の春のはなし