2.

 勢いをつけず、扉をそっと押してみたのは「念のため」だった。
前日のことを思いだし、もしかすると、と思ったのだ。その予想はあたっていた。ゆっくりとひらいた扉の向こうがわが、こん、と何かにあたる音がした。すべり出るには狭い扉のすき間を見て、ため息をつく。
 本当に子どもだ。扉の前にものを置いたら、ひらくときにじゃまになることくらい、予想できないものだろうか。
 扉を押し、その何かを一緒に移動させ、自分ひとり通り抜けられるだけのすき間を作った。
「……」
 置いてあったのは、ちいさな野の花だった。うすいむらさき色の花びらがついている。当然のことながら、名前は知らない。ちんまりと、ちいさなジャムの空きびんに生けてあった。ふつうに扉をひらいていたら、ひっくり返していたことだろう。
「こんなモン、俺にどうしろと」
 しゃがみこみ、びんを目の高さにかかげた。あの新兵が、訓練や掃除の合間に野原を歩きまわるところを想像した。きっと花を見つけ、摘んでからさてどうしようと考え、炊事場にころがっていたジャムの空きびんを思いだしたのだろう。意外なことに、ガラスはくもりなく透きとおっていた。彼がびんをひとりせっせと磨いている姿を想像し、がさつなように見えて思いのほかていねいな掃除のしかたを思いだす。
 リヴァイは立ち上がり、びんとそこに生けられた花をしばらく眺めた。逡巡して、部屋にもどると窓ぎわにそれを置いた。殺風景だった部屋が、急に「ひとの住まい」らしく見えてくる。
『──兵長に、喜んでいただけるかと』
 そう彼が言っていたことを思いだす。
 花なんて贈られたのは、はじめてのことだった。

 

 それから毎朝、部屋の前にちいさな花が置かれるようになった。リヴァイの部屋の窓の前には色とりどりの花と、さまざまなかたちのびんが並ぶようになり、四日目にリヴァイは一日目の花をていねいに本にはさみ、空になったびんを部屋の前に置いた。すると街の牛乳配達のようにそれはいつの間にか回収され、その次の日にはそのびんに新たな花が生けられた。
 リヴァイの本には栞のように押し花が増えていき、ふとした瞬間にそのすこし褪せたやさしい色合いが目にはいると、なんともいえない気持ちになった。
このやりとりについて、彼と何かを話したことはなかった。ときおり何かを言いたげな様子で名前を呼ばれることがあったが、結局は型通りの報告のことばがつづくだけだった。




「それでさぁ。こいつ、その店の売り子にも花を渡してたんだ」
「うるせえな! 若い頃の話だろうが」
「どうなんだペトラ。花を贈られるっていうのは結局のところ、女性はうれしいものなのか」
「花をもらうのは憧れよね。相手にもよるけど」
「ほらな、効果的なんだ」
「相手によるって言ってんだろうが」
 なんだと、とオルオがおおきな声を出し、その場にいた全員がたのしそうに笑った。
「お、なんだいなんだい。たのしそうな話してるじゃないか」
「あ、兵長、分隊長! お疲れ様です」
 任務を終え、夕食をすませ、ハンジと実験の打ち合わせを終えて部屋を出る。一日のおわりに部下たちが賑わっているところに通りかかり、ハンジがおおきな声で割って入っていった。彼らはすばやく立ち上がって敬礼をしたが、そこにもうはじめの頃のような畏怖の表情はない。「聞いてください」とたのしそうに今までの会話をかいつまんで話した。
「そんなわけで、花を贈るのは効果的だけど、オルオじゃだめらしい、という話です」
 そこでまた一同が笑う。
「なんとでも言え。好きになった相手には花を贈りたくなるもんだ。なぁエレン」
 オルオはそう言って、エレンの肩に腕をまわす。リヴァイはその様子を、部屋の入り口に寄りかかりながら見るとはなしに眺めた。
「……好きな相手に?」
「おっと、まさか初恋もまだか? ひよっこのガキには早い話だったかな」
 ぐりぐりとほおをつつかれ、エレンは迷惑そうに腕をよけながら口をひらいた。リヴァイはその視線が自分に注がれているのに気づき、一瞬、無防備に視線が絡み合った。
 おおきな琥珀色の瞳が光っていたが、それは審議所の地下で見たようなギラギラとした光ではなかった。そこにあったのは、ふしぎな、戸惑いの光だった。
「好きとか、よくわかんないですけど、」
 彼が何を言おうとしているのか、わかったような気がした。
 目を逸らし、注がれた視線をぶつりと断ち切る。
「──花を贈りたい相手は、います」
 がらにもなく、心臓がはねあがった。
「えっ! だれだれだれ、あの美人な幼馴染かい?」
「はぁ!? お前、そんなのいるのか!?」
「エレン! その子のこと好きなの!?」
 どっと一同が盛り上がりを見せたそのどさくさに紛れ、そっと部屋から抜けだした。おおきくはねた心臓は、どくどくと脈打っている。
「エレン、その気持ちが好きってことだ」
 後ろで、誰かがエレンに恋を教えているのが聞こえた。彼がなんと答えたのかはわからない。
 ──やめてやれ。
 新兵が男の上官に野の花を贈りたいと思う気持ちが、恋であるわけがない。勘ちがいだ。さっき目が合ったと思ったのも、きっと気のせいだ。戸惑いの光も、見まちがいだ。
 自室にもどると、窓際にならぶ小びんが見えた。ため息をついていすに腰かけると、机の上に積まれた本のすき間から、押し花になった花びらがわずかに飛びだしていた。本人を入れたことすらないこの部屋のなかに、エレンの気配が充満しているような気がした。


 いすに腰かけたまま、しばらく本を読んでいた。
 朝までぐっすり眠れたことはほとんどないが、寝る前に本を読むとすこし寝つきがよくなることに気がついたのは、二十代の頃だった。内容はなんでも構わなかった。もともと教養のない自分にとっては、書物に書かれていることは単なる活字の羅列でしかない。ただそれを目で追うことに意味があるのだ。
 しかし今夜は活字を追うよりも、ページとページの合間に挟まれた押し花が気になってしかたがなかった。指先でつまみあげ、手持ちぶさたに目の前でくるくると回してみる。
 そろそろだ。
 リヴァイは時計を見上げて思う。
 部屋の前に誰かが立っている気配がした。いつもこのくらいの時間にエレンはやってきて、部屋の前に空きびんに生けられた花を置いて去っていく。しかし今日は扉の前で足音がやみ、彼がまだそこに立っていることがわかる。そして、控えめに扉がノックされた。
「──兵長」
 今この扉をひらいたら何が起こるのか。彼はどんな表情を浮かべ、どんなことを言うつもりなのか。それを知りたいと思った。
 自分の心のうちに湧きあがった感情に、リヴァイはおどろく。そんなことを知って、どうするつもりなのか。自分は何が起こると期待しているのか。
 何も答えなかった。そのくらいの分別はあった。
 足音はそのまましばらくそこに留まっていたが、やがて諦めたように去って行った。そのまま耳をすませていると、階下で誰かとエレンの会話がちいさく聞こえ、ややあって地下牢に錠がおりる重い金属の音がした。