1.
 小さくも凛とうつくしい背中を持つひとは、最近気づくと頭上を見上げている。彼の視線を追いかけて空を見上げるも、そこにはぱっとしないにび色の空と、殺風景な樹々の枝の先端が目に入るだけだった。
 ──何を見ているんだろう。
それが気になった。それ以外に理由は見つからなかった。気づくと彼の姿を探し求めている自分に対する、理由は。



あの世界の春を見る



「……兵長、なに、見てるんですか?」
 そうたずねることができたのは、旧調査兵団本部に拠点を移し、訓練と待機がつづく日々のなか、よく晴れた日のことだった。厩舎の掃除の最中、水を汲みなおそうと井戸へ向かって歩き出したとき、そのそばで頭上を見上げているリヴァイ兵士長を見つけたのだ。
「あっあの、──兵長、よく空を見上げてるなって、気になっていて……」
 くるりとこちらを振り返ったリヴァイの視線に射られ、あわてて弁明のようなことばを紡ぐ。まだ彼と気軽な会話ができるほど、近しい関係にあるという自信はなかった。審議所で思い切り蹴飛ばされ、歯を折られた頃にくらべれば、彼という人間がただ冷酷で恐ろしいというひとではないということはわかってきてはいたが、それだけのことだ。彼に対して任務に関係のない話題を投げかけたのは、これがはじめてのことだった。リヴァイが意外そうに目をおおきくしていたことが、エレンにとっても意外だった。
「……そろそろかと、思ってな」
「そろそろ?」
「……なんでもない。余計なことを気にしてねぇで、掃除をつづけろ」
 ハッ、と拳を左胸にあてる敬礼を返し、エレンは歩き去るリヴァイの背中を見つめる。そしてもう一度、彼が見ていた場所を見上げた。
 彼が見ていたものが何か、エレンが知ることができたのはその二日後のことだった。リヴァイが同じ場所で同じように立っているのを見かけ、エレンはその視線を追いかけた。
「あ、──花」
 つい声に出してしまうと、彼はゆっくりと振り向いた。
「またお前か」
「すみません。あの、水を……」
「早く汲め」
「はい。……兵長、花を見てたんですね? つぼみに気づきませんでした。兵長、花が咲くこと知ってたんですね」
 リヴァイが見上げていた枝には、うすもも色のやわらかな花弁が重なったちいさな花が咲いている。つい先日は気がつかなかったが、よく見れば今にも開きそうなふっくらとしたつぼみがいくつも連なっていた。リヴァイに視線を戻すと、彼はエレンの顔をじっと見たあと、ふっと視線を逸らして言った。
「……別に、花の名前を知ってたわけじゃねぇ。ただこの枝が、昔見たモンに似てると思っただけだ。結果的に合っていたわけだが」
「昔? 昔とは」
「俺が、地下街出身なのは知っているか」
「はい」
 城にやってきたばかりのとき、ペトラに聞かされた話だ。もともと地下街のゴロツキだったというリヴァイは、エルヴィン団長の元に下るかたちで調査兵団にやってきたと言う。
「あたりまえだが、光の差し込まない地下に、花も木も草もなかった。苔や枯れ枝なんかは別だが。……だから、驚いたんだ。初めて地上にあがって、外の世界には本当にこういうモンが咲くんだってことにな」
 リヴァイは顎でくいと、ぽつぽつと木の枝に咲いている花を示した。そのとき初めて、エレンは頭上を見上げていた彼の顎からのどぼとけ、首の線がきれいだと思っていたことに気づいた。頭上を見あげる彼を見つけるたびに、無意識にその線を目でなぞっていた。
「初めて見たのが、この種類の花だった。だから、覚えていた。枝に見覚えがあったんだ」
視線がふたたび自分に注がれ、エレンはリヴァイをじっと見つめつづけていたことに気づく。動揺を悟られないよう、あわてて目を逸らして言った。
「兵長は……、お好きなんですね、この花が」
「──好き」
 ぽつりと彼がくりかえしたことばが、甘く空中を漂ったような気がした。すこし驚いた様子で目を見開き、エレンを見つめている。そのことばの幼い響きに、子どもじみたその表情に、エレンは急にどきどきと自分の心臓が脈を速めはじめるのを感じた。リヴァイはふたたび花を見上げる。
「そうかもしれない。……好きなんだろう」
 ──あ。
 一瞬、彼が笑ったような気がした。その次の瞬間にふたりのあいだに強い風が吹き、反射的に目を閉じる。つぎに目を開いたときには、そのやわらかい雰囲気はすっかり消えてしまっていた。
「水を汲むんだったな。余計な話をした」
「いえ……」
 くるりと背を向け、歩き去るうしろ姿を見ながら、今の会話をはじめから反芻する。今まででいちばん長い会話だった。そして、とても個人的な。ふうと息を吐いて目を閉じる。目のうらに浮かんだのは、花を見上げるリヴァイの首に浮かぶ、のどぼとけの稜線だった。





「おい、お前」
 朝食当番のために早朝に起きだし、炊事場のいすに腰かけて芋の皮を剥いていると、入り口から声がした。はじかれたように立ちあがり、拳を胸に当てる。
「リヴァイ兵長、……おはようございます!」
「お前」
 彼はツカツカとエレンに歩み寄り、勢いそのままにぐいとエレンの首もとを掴み上げた。突然のことに驚き、ガタガタと座っていた椅子を蹴り飛ばしてしまう。
「えっ、っへいちょ、」
「花の枝を折るな」
「へ」
 リヴァイはじっとエレンの白黒する目を見つめたあと、ため息をついてから手を離した。エレンはそのままへなへなと座りこみ、リヴァイはその目の前にしゃがみこむ。青灰色の瞳と至近距離で視線がかさなり、ことばにならない声がエレンののどの奥から空気のように漏れ出した。彼に対し、恐怖という感情を久しぶりに思い出す。
「枝を折って俺の部屋の前に置いたのは、お前だろう」
「あっ……」
 その通りだった。昨日リヴァイが去ってからもしばらく花を眺め、思いついたことだった。これを兵長にあげよう。部屋に飾ったら、この古い城のなかもすこし明るくなるかもしれない。──兵長が、喜ぶかもしれない。まだ見ぬ彼の笑顔を想像した。そうして一日の仕事を終え、地下室へ降りていく前にそっと城を出て、枝を手折ったのだ。枝を手に、外からリヴァイの部屋の窓を見上げ、そこに灯りが灯っているのを確認した。ノックをするかどうか迷い、黙って部屋の前に置いた。ノックをしていれば、その場で叱りとばされていたことだろう。
「っ、……兵長に、喜んでいただけるかと」
「かわいそうだろうが。そのままにしておけば、来年も咲く」
「……申し訳ありません。以後、気をつけます」
 ──かわいそう。
 本心から反省しつつも、リヴァイの口から出たことばに、うつむきながらエレンはおどろく。ここ数日で、リヴァイのその意外な一面におどろかされてばかりだった。話せば話すほど、新鮮な気持ちになる。叱られている今も、彼が部下全員に向けてではなく、エレンひとりに向けてことばを発していることに、不思議な喜びがあった。
エレンの内心はいざ知らず、目の前で叱られてうなだれる子どもを見ているような表情──事実そうなのだ──を浮かべたリヴァイは、本当に怒っているわけではなさそうだった。
「顔を上げろ」
 エレンがおそるおそるリヴァイの目を見上げると、リヴァイはため息をついてその顔を覗き込む。その瞬間、顔の近さにどきりとする間もなく、脳天をつらぬくような痛みが走った。リヴァイが強烈な「でこぴん」を、彼の額にくらわせたのだ。
「──っ……」
「……まぁ、これでいいだろう。仕事をつづけろ」
 人類最強のくれた一発は、痛みで息が止まりそうになるほどだった。涙でにじむ視界のなか、リヴァイの立ち上がった気配を感じ、絞り出すような声で引きとめる。いすにつかまりながらよろよろと立ち上がり、弱々しく敬礼のポーズをとった。まばたきをして涙がぽろりとこぼれ落ちたが、拭うような馬鹿な真似はしなかった。
「ひとつ、質問してもよろしいでしょうか」
「……なんだ」
「野の花は、好きですか? ……木の枝に咲くものじゃなくて、地面に咲いているような」
「……聞いて、どうする」
「野の花なら、……受け取っていただけるかと」
 沈黙が降りた。リヴァイはまっすぐ立っていた姿勢を崩し、片足に体重をかけ、あきれた声と表情で言った。
「……俺に花を送ってどうする。そういうのは、同年代の女にでもやるんだな」
 その通りだ、という気がした。エレンが答えられずにいると、リヴァイはくるりと背を向け、炊事場を出ていった